論文
> 戦争法を廃止して憲法9条を守ることの意義
「民意」を論じる前提 - 選挙制度について考える -
一橋大学大学院法学研究科教授 只野 雅人
はじめに bar03.gif 一人一票と民意

今年7月には参議院議員選挙がある。衆議院の解散による衆参同日選挙の可能性も取りざたされている。安倍首相は、改憲への強い意欲を見せており、改憲を支持する勢力が、衆議院だけでなく参議院でも3分の2の議席を獲得するかどうかが、重要な焦点となりそうである。もっとも、なぜどこを変えるかを論じる以前に、とりあえず「改憲」をすること自体が目標となっている感は否めない。さらに、憲法改正がどの様に争点化されるのかも定かではない。2012年と2014年の衆議院議員選挙の際、自民党の政権公約の中で、憲法改正や安保法制の問題の取扱いは、決して大きなものでも明瞭なものでもなかった。私たちは、何を選択することになるのだろうか。

いまひとつ注目されるのが、選挙権年齢の18歳への引き下げである。240万人ほどの新しい有権者が誕生することになる。新しい有権者の投票率や投票行動に注目が集まっている。ここでもやはり、「選択」の前提となる問題に目を向けておく必要があろう。新しい有権者の政治・社会問題への関心を高めるためには、政治・社会への積極的な関わりや、自由な意見交換が欠かせない。しかしながら、日本の選挙運動に規制が多いことは周知の通りである。また、校外の政治活動について高校への届出を義務づける動き(愛知県)なども報じられている。「主権者教育」の意味が問われよう。

選挙は「民意」の表明であると言われる。しかし、何が「民意」なのか、あるいは有権者が選挙で何を選択したのかを正確に把握することは難しい。「民意」は、選ばれた議員や各党の獲得議席につきるものではないであろう。

私たちの選挙制度の基礎にあるのは、「一人一票」という理念である。その具体化が、普通選挙である。だが、政治的に等価値な一人一人の票を積み上げて「民意」をつくってゆくのは、決して容易な作業ではない。日本に男子普通選挙が導入された1925年、ある憲法学者は次のような指摘を行っている。

「普通選挙は総ての公民を勝れた判断力を有する哲人の如くに取扱ふ制度であるが、単に制度の上に於て、哲人の如く取扱ふことに依つて、其各個人が、実質的にも哲人になるものとは考へられない」「主義と定見とを有せざる政党が、風向き次第と云ふより外はない選挙人を相手として、不合理な、非組織的な普通選挙を行うことに依つて、理想的な政治を実現しやうと云うが如きは、所謂木に縁つて魚を求むるの類である」1

重要な選択の機会を前に、あらためて「民意」を論じる前提について、「民意」の表明を語りうるための条件について、考えてみたい。
1. 政治的無関心 ?

まず最初に考えておきたいのが、投票率の低さという問題である。衆議院議員選挙についてみると、戦後の投票率は60% 台後半から70% 台後半でずっと推移していた。だが現在の選挙制度が導入された1994年以降は、7回中4回が50% 台である。自民党が議席面で圧勝した前回2014年の選挙は、戦後最低の52.7% であった。

参議院議員選挙についても、やはり戦後ほぼ一貫して投票率は60% を超えていた(70% を超えることもあった)が、1990年代以降は50% 台が続いている(1995年は44.5% であった)。前回2013年通常選挙の投票率も、52.6% である。投票率の低下傾向は否定できない。その傾向はとくに20代の有権者に顕著である。2014年衆議院議員選挙での投票率は32.6% にすぎない2。「民意」の表明というには寂しい数字である。

しかし、投票率は一貫して低下しているわけではない。2005年と2009年の衆議院議員選挙の投票率はそれぞれ、67.5%、69.3%であった。前者は郵政解散による総選挙、後者はいわゆる政権交代選挙である。重要と考えられる明確な争点があれば、有権者は投票所に足を運んでいるのである。

このことは、棄権理由をめぐる意識調査からも確認できる。明るい選挙推進協会が行った2013年参議院議員選挙についての調査結果によると、棄権理由として多かったのは、「適当な候補者も政党もなかったから」(26.4%)、「選挙にあまり関心がなかったから」(19.0%)、「政党の政策や候補者の人物像など違いがよく分からなかったから」(19.0%)、といった選択肢であった(複数選択可)3

投票率の低さは政治的無関心の表れであると、単純に割り切ることはできない。有権者が選ぶことのできる選択肢をどうしたら提供できるのか、考えてみなければならない。それは何より、政党・候補者の側の問題であろう。しかしまた、選挙制度それ自体にも問題があるように思われる。選挙制度をめぐっては、選択肢をどう拡げるかを論じる以前に、そもそも選挙で「民意」が表明されたといいうるための前提が問われかねないような問題もある。まずは近時問題となってきた、投票価値の不均衡から考えてみたい。
2. 一票の重み

ここしばらく、国会両院の選挙制度をめぐり何より問題となってきたのが、衆議院小選挙区選挙、参議院選挙区選挙における投票価値の不均衡である。最高裁判所は、前者をめぐっては2011年(3月23日大法廷判決)、2013年(11月20日大法廷判決)、2015年(11月26日大法廷判決)と3度続けて、また後者をめぐっても2012年(10月17日大法廷判決)、2014年(11月26日大法廷判決)と2度続けて、投票価値の較差が憲法違反の状態にあるとの判断を示し、国会に早急な是正を強く求めてきた。

両院の選挙制度の主要部分について5年続けて、毎年「違憲状態」判決が下され、憲法違反の状態が継続するという、極めて異例の事態となっている。選挙の正統性だけでなく、国会の政治的意思決定の基盤の正統性までもが、問題とならざるを得ない状況である。にもかかわらず、国会の対応は鈍かった。そうした中、安保法制のような、極めて重大な憲法問題をはらむ法案も可決されている。

とくに大きな不均衡が継続してきたのが、参議院の選挙区選挙である。都道府県を選挙区とするという仕組みのもとで、最大で5倍前後の投票価値の較差が生じてきた。こうした較差は、選挙や政治的意思決定の正統性を損なうだけでなく、国会における多数派形成や両院関係にも無視できない影響を及ぼしうる。この点がとくに問われたが、2009年の政権交代選挙の翌年実施された2010年の参議院議員選挙であった。民主党政権は、単独でも、又連立与党としても過半数の確保に失敗し、その後両院間の「ねじれ」が深刻化したことは、まだ記憶に新しい。

実はこの選挙では、民主党は比例区では第1党であった(民主党16議席、自民党12議席)。一方選挙区では、自民党39議席に対し、民主党は28議席にとどまった。しかし47都道府県の得票を合算すると、民主党の得票が自民党の得票を300万票以上も上回っていたのである。自民党が、改選議席数1のいわゆる1人区(半数改選のため配分される定数は2)で圧勝した結果である。あくまで仮定の話にすぎないが、投票価値の不均衡の是正が行われていれば、選挙結果に無視し得ない相違が生じていた可能性も否定できない4

最高裁判所は、この選挙を違憲状態であると判断した。そしてさらに、議員定数の振替えにとどまらず、「都道府県を単位として各選挙区の定数を設定する現行の方式をしかるべき形で改めるなど、現行の選挙制度の仕組み自体の見直し」が必要であるという、踏み込んだ指摘をも行っている(最高裁判所2012年10月17日大法廷判決)。判決は、憲法は、「立法を始めとする多くの事柄について参議院にも衆議院とほぼ等しい権限を与え」ているとの認識を示している。最高裁判決は、「ねじれ」を生み出しうる参議院の強い権限を考慮すると、「参議院は衆議院とともに国権の最高機関として適切に民意を国政に反映する責務を負っていることは明らかであり、参議院議員の選挙であること自体から、直ちに投票価値の平等の要請が後退してよいと解すべき理由は見いだし難い」と指摘している。判決は言及していないが、2010年参議院議員選挙における得票と議席の「ねじれ」も考慮すれば、こうした指摘には十分な理由があると思われる。

国会は小幅な手直しを行ったが、2014年にも違憲状態判決が示されたことから、2015年7月、ようやく一部の都道府県(鳥取・島根、徳島・高知)の合区に踏み切った。憲法上の要請に照らせば当然の対応である。しかし、合区対象となった選挙区の議員を中心に、強い不満の声もあがっている。「地方の声」が届かなくなるというのである。たしかに、様々な「声」、とくに様々な少数意見の反映は、国会の重要な機能であろう。問題はそれをどの様に実現するかである。そこで次に、選挙制度を通じ様々な民意を反映することの意味について、考えてみたい。
3. 地方の声、多様な声

東京に代表される都市部に対する「地方」の利益を代表する必要性が、今日様々に主張されている。人口の減少による「地方」の活力の衰退を懸念する主張にはもっともなところがあろう。そうした「地方の声」をはかる物差しとして、都道府県が想定されることが多い。

最高裁判所もかつては、「都道府県が歴史的にも政治的、経済的、社会的にも独自の意義と実体を有し一つの政治的まとまりを有する単位としてとらえうることに照らし、これを構成する住民の意思を集約的に反映させるという意義ないし機能」を重視し、参議院議員選挙では都道府県を選挙区とすることが許される以上、その限度で投票価値の平等の要請が一歩後退することもやむを得ないと述べていた(1983年4月27日大法廷判決)。しかし、先にみた2012年10月17日大法廷判決は、投票価値の平等の要請を優先し、都道府県を「参議院議員の選挙区の単位としなければならないという憲法上の要請はな」いと判断するに至っている。

国会は最高裁の判断をふまえ、やむなく合区に踏み切った。しかし不満も根強く、「東京一極集中」の緩和と「地方創生」のために、都道府県を選挙区として維持できるよう、憲法改正を行うべきだという主張もある5。自民党は、参議院議員は各都道府県から必ず1名選出されなければならないという憲法改正を参議院議員選挙の公約の内容として検討している、とも報じられている6

だが、都道府県を単位に「地方の声」をどこまで捉えることができるだろうか。同じ地域の中にあっても、当然様々な「声」「利益」が存在し、相互に複雑に重なり合っているはずである。ある地域に公共事業をもってくれば経済が潤うようにみえるが、他方で福祉の予算にしわ寄せがきているかもしれない。「地方の声」という主張は、様々な「届きにくい声」「少数意見」の束ではないだろうか。そしてまたそれら様々な「声」は、必ずしも都道府県という枠の中だけに収まるわけでもないであろう。都道府県という単位でそれらを区切るのではなく、それぞれをより大きな「声」としてつなぎ合わせ、括り出す仕組みが必要であろう。

参議院は地域代表だともよく言われるが、その意味も問題である。そこでの「地域代表」が単なる地域の利益代表を意味するとすれば、その点で参議院議員と衆議院議員に違いはない。地域に予算や事業を運んでくる代理人を増やすだけで、「地方創生」につながるのだろうか。参議院にどの様な「地域代表」を期待しているのか、また現在の選挙制度が、様々な少数意見の束である「地方の声」を適切に反映するものとなっているのかどうか、冷静に考えてみる必要がある。

都道府県を選挙区とするという仕組みを大前提に、これまで、投票価値が軽くなってしまった選挙区に議席を振り替えるという措置がとられてきた。その結果でもあるが、45選挙区のうち、いわゆる1人区が32にのぼっている7。事実上の小選挙区である。これら1人区の選挙結果が、参議院議員選挙の結果を大きく左右してきた。現在、選挙区選挙の1人区で、「野党共闘」にむけた取り組みや駆け引きが続いている。

いささか不自然な「共闘」が、1人区という仕組みによって強いられているという面にも目を向ける必要があろう。たとえば都道府県よりも大きな選挙区で、複数の党派の代表が可能になるような仕組みも考えられる8。それは、投票価値の平等の実現にも資することになる。

多様な「声」の反映をめぐる問題は、もちろん、参議院の選挙区選挙だけに限られない。小選挙区を中心とした衆議院の選挙制度についてもまた、検討が必要であろう。2005年以降、衆議院議員選挙では、第1党が小選挙区で70〜 80% 近い議席を得ている。小選挙区は多数代表機能が強い仕組みであるが、それが際立っているように思われる。現在検討されている衆議院の定数削減についても、「小さな声」が通りにくくなることが懸念される。日本の国会議員数(議員1人あたりの人口)は、議院内閣制を採るヨーロッパ諸国と比べても、決して多いとは言えない9
4. 自由な言論と選挙

ここまで選挙制度を中心に、「民意」を論じる前提について考えてきた。たしかに選挙は、「民意」が表明される最も重要なルートである。しかし、選挙結果だけをもって「民意」の表明を語るのでは、不十分であろう。この間、とくに衆議院議員選挙をめぐり、マニフェスト選挙、政権選択選挙であることが強調されてきた。しかし有権者に提示されるマニフェストは必ずしも一貫性をもった政策体系として仕立て上げられているわけではないし、憲法改正や安保法制のような重要な争点がぼかされている場合もある。

さらに、原発や安保法制のような重要な政治的争点をめぐり、世論調査からうかがわれる民意と政権あるいは国会の多数派との間にズレが見られることも少なくない。選挙のように制度化された正規のルートだけでは汲みつくすことができない、曖昧ではあるが可塑性をもった bar03.gif 常に変化しうる bar03.gif ものとして、「民意」を考えてみるべきであろう。

東日本大震災後には原発やエネルギー政策をめぐり、また昨年は安保法制をめぐって、選挙という正規のルートだけには収まらない「民意」が、デモや集会、あるいはウェッブを通じて、様々にあふれ出ている。数年間の政治の方向を決定づける選挙の重要性はゆるがない。しかし、制約のない「自由な意見交換から生まれた世論こそ、民主的正当性をもち、そうした世論をふまえた決定であってこそ「『国民意思』の確定という名にふさわしい」10、という指摘にもまた、耳を傾けてみる必要がある。

選挙という正規の民意表明のルートをめぐっても、「自由な意見交換」は欠かせない。この点で問題となるのが、選挙運動をめぐる種々の規制である。そもそも、現行の選挙制度それ自体のうちに、自由な意見表明を妨げ、選挙と民意のずれを生み出す一因があるのではないか、ということである。選挙運動をめぐっては、選挙の「公正」や候補者間の平等を重視し、「一律平等に不自由」11な運動を強いる現行公職選挙法の規定のあり方が、かねてより問われてきた。公職選挙法が認めた手段の中で、選挙運動はたしかに「平等」に行われている。しかしその代償として、様々な運動の自由の制約を甘受しなければならないということである。

とりわけ厳しい規制が行われてきたのが、文書図画による選挙運動である。公選法(142条)が認めた手段以外は利用できないという、いわば原則禁止ともいえる仕組みである。それゆえ、「文書図画」を利用した新たな運動手段を認める場合には、あらたに「例外」を認める規定を設ける必要が生じる。そのため、マニフェストの配布を可能にするための条項の付加も行われている(公選142条の2)。通常の「政治活動」であればおよそ許されないような厳しい規制が、「選挙運動」の特殊性を理由に行われてきたのである。

前回2013年の参議院選挙前に、もうひとつ、「例外」が付け加えられた。いわゆるネット選挙である。ウェッブサイトはそれまで、いわば法定外文書の扱いを受けており、選挙運動期間中は政治家のホームページの書き換えなどもできないなど、窮屈な扱いがなされてきた。新たに規定を設けることで、一定の条件のもと、ウェブサイトや電子メールを利用する方法による選挙運動が認められるようになった。電子メールの利用は、候補者・政党等に限られているが、SNS を利用した運動にはそうした制限はない。

ネット選挙の解禁は、新たにひとつ、原則禁止の例外を付け加えた改正にとどまる。しかし、とくに若い世代の有権者が増加して行くにつれ、ウェッブやSNS を利用した運動が拡がり、選挙運動のスタイルが変わってゆく可能性もある。もっともそれには、いま少し時間がかかるであろう。また、ネット選挙によって、候補者・運動員と有権者がじかにふれあう場の必要性が小さくなるわけでもない。かねてより問題となってきた戸別訪問の禁止など、見直しを要する点はほかにも少なくない。

現在のように、選挙カーが候補者名を連呼し続けるという運動のあり方は奇妙である。ネット選挙を端緒に、「一律平等に不自由」な厳しい規制のあり方を問い直してゆく必要があるだろう。
むすび bar03.gif「輿論」と「世論」

「はじめに」で引いた憲法学者のことばが示すように、政治的に等価値な一人一人の一票から、「民意」を作り上げるのは容易なことではない。1925年に男子普通選挙が導入されたことで、有権者数はそれまでの328万人から1240万人に急増した。政党の組織化こそ当時に比べると進んだが、有権者が1億人を超える今日においても、「民意」を作り上げる難しさに変わりはない。1993年の政治改革では、政策本位・政党本位の選挙、政権交代可能な仕組みの実現が旗印として掲げられた。しかし、政党指導部の統制力こそ強まったものの、マニフェスト選挙(政権選択選挙)は定着せず、政権交代の展望も大きく遠のいている。「一強多弱」などと言われる状況の中、有権者には十分な選択肢が提供されていない。投票率が上がらないことには、相応の理由がある。重要な問題が十分に争点化されない中、「風向き次第」の選挙とならないかも、気がかりな状況である。

ここまでみてきたように、選挙制度をめぐり、見直すべき点、工夫すべき点は少なくない。だが、むろん、制度はすぐには変わらない。あらためて強調しておきたいのは、「民意」とは、選挙のように制度化された正規のルートだけは汲みつくすことができない、常に変わりうるものだということである。あらかじめ定まった「民意」があって、それが選挙を通じ国会に反映される、というものではない。ここでも、含蓄に富んだ先人のことばを引いてみたい12

「輿論と云ふものは初めつからはつきり固定して居るものであるかと言へば、必ずしもさうではないのでありまして、初めに輿論と稱するものがあつて、それが國會に現はされると云ふものであるか、國會に於て論議せられ、それが世間に反響し、相合して本當の意味に於て輿論が實現せられて行くものであるかと云ふやうなことに付ても、考へなければならぬ」。

ここでは「輿論」という言葉が使われている。現在では「世論」の語が用いられるが、戦前までは、「世論(せろん)」、「輿論(よろん)」が区別して使われていたとされる。「公論」「理性的な多数意見」を意味する「輿論」に対し、「世論(せろん)」は「私的」「気分や雰囲気の表出」といった意味合いであったという13

もとより、何が「輿論」であるのかを簡単に決めることはできない。哲人が現実にはいないのと同様、あるべき民意 bar03.gif「輿論」bar03.gif もまた実際には存在しないだろう。さまざまな「世論」を「輿論」にどう近づけてゆくのか、そのプロセスが重要である。民意を表明するルートに様々な目詰まりがあるとしても、そうしたプロセスを止めるわけにはゆかない。昨年夏の安保国会では、国会の外で、国会の構成とは大きく異なる「民意」の様々な表情が垣間見えた。理想論ではあるけれども、「國會に於て論議せられ、それが世間に反響し、相合して本當の意味に於て輿論が實現せられて行く」ということばをあらためてかみしめてみたい。選挙もまたそうしたプロセスの一コマ bar03.gif ただし最も重要な一コマ bar03.gif である。
  1. 森口繁治『比例代表法の研究』(有斐閣、1925年)、「序」3-4頁。
  2. 年代別投票率は、全国から標準的な投票率を示している投票区を抽出し調査したものである。http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/(最終アクセス2016年4月28日)
  3. 総務省選挙部『目で見る投票率』(2015年6月)28頁。http://www.soumu.go.jp/main_content/000365958.pdf(最終アクセス2016年4月28日)
  4. 朝日新聞2010年8月23日。
  5. たとえば、全国知事会・第3回憲法と地方自治研究会の資料を参照。http://www.nga.gr.jp/data/activity/committee_pt/committee/hyoka/h27/160304.html( 最終アクセス2016年4月28日)
  6. 産経新聞2016年4月4日。
  7. 当初1人区は25であった(沖縄の本土復帰により26)。1994年の初めての定数是正により24となったが、その後、定数削減と定数是正により増加してきた。
  8. 竹中治堅『参議院とは何か』(中央公論社、2010年)352頁以下。
  9. 定数の小幅削減を提言した有識者による衆議院選挙制度に関する調査会答申(2016年1月)も「現行の衆議院議員の定数は、国際比較や過去の経緯などからすると多いとは言えず、これを削減する積極的な理由や理論的根拠は見出し難い」としている。http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_annai.nsf/html/statics/shiryo/senkyoseido_toshin.html( 最終アクセス2016年4月28日)
  10. 毛利透『民主政の規範理論』(勁草書房、2002年)279ー 280頁。
  11. 奥平康弘『なぜ「表現の自由」か』(東京大学出版会、1988年)180頁。
  12. 第90回帝国議会貴族院帝国憲法改正案特別委員会議事速記録第18号(1946年9月20日)1頁。憲法担当国務大臣・金森徳治郎。
  13. 佐藤卓己『輿論と世論 日本的民意の系譜学』(新潮社、2008年)。
(ただの・まさひと)

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