論文

税理士法違反事件に係る鑑定
立正大学法学部客員教授(税法学) 浦野 広明
岡山地方裁判所第一刑事部(松田道別裁判長)は、2015年4月17日、税理士法違反で起訴された倉敷民主商工会の小原淳事務局長と須増和悦事務局次長の両人ともに、「懲役10月(未決勾留日数100日算入・執行猶予3年)の判決を言い渡した。本事件は控訴審である広島高等裁判所に舞台を移すことになった。

裁判官の心証形成を科学的にコントロールするためには、裁判官が科学的な思考の基礎のうえに立って心証を形成しうる能力を高める必要がある。「心」とか価値判断というものは、それ自体人間の主観的現象であるが、その背後にある事実認定は、科学的客観的認識法則にしたがってなされなければならない。また、それが可能になるような事実認定手続の保障が不可欠である。その保障がなされていなければ誤った裁決がなされる危険がある。

以下は、正しい事実認定のために、税法研究者としての科学的知見にもとづいて行なった鑑定である。
鑑定書(2015年5月11日)
倉敷民商事件は、国家権力が倉敷民主商工会(倉敷民商)の活動を「税理士法違反」だとして起訴し、その団体の事務局員を逮捕し、長期にわたって勾留した事件である。

岡山地方裁判所刑事1部(松田道別裁判長)は、税理士法違反容疑で起訴された、倉敷民商の小原淳事務局長と、須増和悦事務局次長に次の判決を下した(2015年4月17日)。

次は判決の概要である。
主文=「被告人両名(小原淳・須増和悦)を、それぞれ懲役10月(未決勾留日数中各100日をそれぞれの刑に算入)。3年間執行猶予。」罪となるべき事実=「被告人両名は倉敷民主商工会の事務局員であるが、税理士ではないのに、業として、小原は税務書類である法人税の確定申告書を作成、須増は税務書類である所得税の確定申告書を作成するという税理士業務を行った。」

税理士法は税理士の制度について規定する法律である。同法52条は、税理士業務の制限について、「税理士又は税理士法人でない者は、この法律に別段の定めがある場合を除くほか、税理士業務を行つてはならない。」と、また同法59条3項は、税理士又は税理士法人でない者が、税理士業務を行った場合、「二年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。」と規定している。

本来、市民法秩序のもとにおいて団体設立の自由は市民的自由の一つの重要な内容をなすものであり、国家権力がこれに干渉すべき筋合いのものでない。もちろん一定の公益法人のように、公益的見地から権力が一定の干渉を加えることはあるが、少なくとも単なる私的利益追求のための団体においては、原則として設立・活動の自由が保障されねばならない。この意味で、小企業者がその私的事業を営むにあたって、小企業者にとって有益な団体に加入し、その団体の一員として事業を行うかどうかもまた、原則として小企業者の自由意志に属することであり、国家権力の介入すべきことがらではない。

それにもかかわらず、民主商工会等の小企業者の団体に国家があえて干渉するのはいかなる理由によるのか。本鑑定は、民主商工会等の小企業者の団体が行っている自主的運動が税理士法違反とはならないことを明らかにするものである。

I 鑑定事項
民主商工会等の小企業者の団体が行っている自主的運動は税理士法違反となるのか。

II 鑑定主文
民主商工会等の小企業者の団体が行っている自主的運動は税理士法違反とならない。

III 鑑定理由
1 法解釈の基本
倉敷民商が税理士法に違反しているかどうかは税理士法の解釈問題である。法の解釈については次の点を押さえることが大切である。

(1)法の解釈(法解釈学)
法の解釈とは、一定の社会的事実に法規を適用して結論を下し、その事実に対する法的価値判断を行うことである。それは、一定の論理的形式、すなわち法規を大前提とし、事実を小前提とする三段論法形式によって媒介される。この三段論法形式にもとづいて導かれた結論(一つの具体的価値判断)が正しいかどうかは、その大前提および小前提が正しいかどうか、および両者の関連の仕方が正しいかどうか、という三つの問題に帰着する。

1 大前提(法規の内容)
まず、第一の問題であるが、大前提である法規に含まれる言葉や概念または文章、およびそれらによって構成される論理構造が、具体的にいかなる内容の規範命題を意味しているかは、必ずしも、客観的なわけではない。法の文章や文字そのものは客観的に唯一つしか存在しないが、それにいかなる具体的意味内容を付与するかは、解釈者の価値判断の違いによって異なりうる。そしてこの場合、どの価値判断が、当該法規の持つ歴史的意味内容をもっとも正しく反映しているかを確定することが必要である。

法規は論理的 = 歴史的体系として客観的に存在する制度である。それぞれの法規はそれぞれの歴史的根拠にもとづき、一定の経済的・政治的・社会的・人間諸関係の必要に応じて成立し、且つ機能しているのである。だから法規ないしその論理の具体的意味内容は、当該法規の歴史的性格によって規定され、制約されるのであって、決して個人の恣意的な価値判断によって支えられるのではない。そこで、法規の意味の確定には、根本的に、その趣旨や目的、つまり、法規が目指している価値判断が明らかにされねばならず、これら趣旨や目的は、社会的歴史的根拠にもとづいてのみ説明されねばならない。

2 小前提(事実の認定)
次に第二の問題であるが、小前提たる事実の認定もまた、現実にはしばしば価値判断の相違によって異なりうる。というのは、法の解釈の基礎となる事実は、現実の客観的事実そのままの再現ではなく、法的価値判断の対象ないし素材たる事実であり、したがって、すでに解釈者のふるいにかけられ、再構成された法的事実であるからである。たとえば、松川事件(1949〈昭和24〉年、東北本線松川駅付近で起こった列車転覆事件)、八海事件(1951〈昭和26〉年、山口県熊毛郡麻郷村八海で夫婦が惨殺され、16,000円が奪われた事件)などについて言えば、結局は被告たちが列車を 覆したかどうか、あるいは単独犯行か5人の共同犯行かという事実認定そのものが争われているのであるが、両事件とも認定の証拠としては「自白」が中核に置かれている。したがって、自白の証拠能力に重きを置くべきかどうかという価値判断の相違(これは当然に自白の任意性等々の法律問題に関連してくる)によって、そこから導き出される事実認定もまた全く異なったものとなる。

このように、同じ一つの社会的事実に対し、解釈者が全く異なる認定を下し、全く異なる「法的事実」をひきだしてくることもまれではない。しかし、このことは、解釈者が恣意的に自分の判断に都合のよいあれこれの事実だけを引き出して法的事実を構成してよい、ということを意味するものではない。解釈者の価値判断にもとづいて再構成され類型づけられた「法的事実」のうち、どれが果たして客観的に存在する社会的事実を最も正しく反映しているかを、吟味しなければならない。これもまた法解釈学の重要な課題である。そしてそれは、経験的事実の観察とそれにもとづく論証を基礎とするものであり、イデオロギー(思想傾向)によって左右されるべき性質のものではない。

3 大前提と小前提との関係の適合性
そして第三の問題であるが、大前提と小前提との関係の適合性、すなわち、一定の事実に一定の法規を適用することの可否という問題は、実際には第一、第二の問題の中に含まれている場合が多い。なぜなら、一定の法規に対する理解の相違や、一定の事実に対する認定の相違が、当然に、事実の法規への適用の仕方、すなわち両者の関連の仕方の相違をもたらすことは自明なことに属するからである。したがって、第三の問題は、本質的には、第一、第二の問題と同じ問題を、別の角度から提出するのである。ただ一定の事実に対する法規の適用の相違が、一面から言えば、やはり法規の理解の相違に由来する問題であり、他面から言えば「法的事実」の相違に由来する問題でもあるように見える場合が少なくないことに注意すべきである。

(2)法規の解釈
法規の言葉や概念、文章の意味
大前提である法規そのものの解釈についていえば、ある法規の言葉や概念、文章の意味を正しく解釈しているかどうかを判定する基準は、その解釈が法の趣旨とその限界を認識しているかどうかという点である。同一の文字が使われていても、法規が異なれば、それぞれの法規の趣旨や目的が異なるのに応じて、それらは、異なった社会的意味内容を持ちうる。いわゆる類推解釈、反対解釈、拡張解釈とかいわれるものが、どの程度に認められるかという問題もまた、根本的には論理的理由にもとづいてではなく、制度の趣旨や目的に適合するかどうかという実質的理由にもとづいて決定されねばならない。解釈の成否もまた、それらの趣旨や目的の社会的実質的根拠の認識の度合にかかわっているのである。

法の実体的趣旨目的
法の趣旨や目的がどのような内容の社会関係を規律しようとしているかを、実体的に明らかにすることは、正しい法解釈の前提としてきわめて大切なことである。法の趣旨や目的は、客観的に正しい認識が存在するし、この認識のためには経験科学にもとづく分析が必要である。分析においては次の点が注意されねばならない。

(イ)法の趣旨や目的は、必ずしも立法者または法を定立する階級の主観的な意図や目的を意味するものではないし、またいわゆる立法者の「立法理由」そのものを指すわけではない。定立され客観的に制度として存在する法に固有の・内在的意味や目的を指しているのである。この意味での立法趣旨や制度の目的は、立法者や支配階級の主観的意図とは別個の独立のものであり、これと必ずしも同じでない。

なぜなら、法はもちろん支配階級の意思を究極には表現するものではあるが、彼らの主観的意図をむき出しのまま表現することを意味しない。支配者の意図は、それと矛盾対立する国民の主観的意図と衝突し対抗しつつ、その一定の力関係によって規定される。被支配層の意図を一定の限度で反映し、その限りで支配者の意図は制限を受けつつ、客観的に命題化された法の形態をとおして定在化される。

同様に、立法者の立法理由なるものも、しばしば立法者の個人的ないし階級的判断を反映するにすぎず、その限りで決して法の趣旨や目的の本質を正しく説明するものでないことがある。

(ロ)このように法の趣旨や目的、その立法理由等は当該法規を生み出した客観的歴史的条件の中でのみ、その歴史的性格と内容を確定しうる。法解釈の規準となる法の趣旨や目的の分析とは、立法者の価値判断や立法理由書をそのまま借用してきたり、その中から解釈者個人の価値判断に都合のよいあれこれの判断を引き出したりすることではない。それは、特定の法規がいかなる歴史的条件の中で、またなぜ成立することを客観的に必然づけられてきたか、さらにその条件の中で、それは具体的利益(経済的、社会的、政治的)を支持する機能を客観的に果たすものであったか、という客観的認識の領域に属することなのである。この認識の上に立って、人は、当該法規が、どのような社会的経済的条件のもとで妥当すべきものであるか、どのような性格の社会関係を対象として具体的に機能すべきものであるか、総じて、その存在意義と限界とを明らかにしうるのである。

(ハ)こうして、法規の適用の限界を、法社会学的認識にもとづいて明らかにすることは大切であるが、このことについては、とりわけ次の諸点が注意されねばならない。

(i)第一に、外国の法制やそれにもとづく解釈を、それら諸外国とは歴史的社会的条件を異にするわが国の場合に機械的に適用することは、解釈の誤解と混乱を招くおそれがある。

(ii)さらに法規の趣旨や目的に内在する限界は、もちろん、立法のさいの諸条件が時の経過につれて変化してくるという事情によって規定される。一定の条件のもとで合理的な法解釈の基準であったものが、別の新しい条件の下ではそうでなくなることはいうまでもない。

(iii)法解釈の指導原理といわれる、民法の信義則、取引安全、罪刑法定主義、期待可能性、行政法の自由裁量等々は必ずしも具体的法規の形で定式化されていないが、その適用の範囲ないし限界についての法社会学的認識が欠かせない前提となる。

(3)事実関係の分析
法の解釈とって重要なことは、大前提たる法規そのものの理解だけでなく、もちろんそれとの関連においてであるが、小前提たる事実関係の理解である。法規は常に一定の具体的事実に対して適用されるものであるから、その基礎の事実の判断を抜きにして構成された解釈は、砂上の楼閣に等しい。

事実関係の正しい分析とは事実そのものを客観的に確定することである。事実そのものに争いがないように見える場合でも、一定の事実関係の発生を必然的ならしめた諸条件の科学的分析が必要とされる。法解釈の前提たる事実関係の正しい理解とは、事実そのものの正確な画定を意味するだけでなく、当該事実の発生を必然的ならしめた本質的理由の確定を意味するものである。現象の奥底にひそむこの内的な関連とその法則性を明らかにすることはまた経験科学の重要な仕事である。この法則性の分析を抜きにして、ただ外面的に事象を眺めることに終わるならば、そのような事実の認識から正しい実践的解決が提唱されることはない。このことはいくら強調しても強調しすぎることはない。なお、事実関係の科学的分析とは、一つの事象を全体との関連の中で把握し位置づけることも含む。

事実関係の分析に関連して重要なことは、社会的事実をできるかぎり正確に「法的事実」に再構成するということである。解釈の小前提たる事実とは、社会的事実そのものではなく、法的価値判断の素材として再構成された法的事実である。

このことは、法解釈に当たって決定的なことでもあるにもかかわらず、従来一般にあまり注意が払われてこなかったといえる。そのことが最も端的にあらわれるのは、刑法学における自白偏重の傾向である。現行憲法の趣旨にかかわらず、この伝統が最も端的にあらわれるのは、先の松川の例をまつまでもなく顕著である。自白を事実認定の証拠に採用することが、この上なく非科学的な方法であることはいうまでもない。同様に、私法の領域なども、当事者が事実を徹底的に明らかにし、その上で法的価値判断の正否を争うことをしないで、事実の究明を避け、「適当」に妥協し、あるいは、事実にもとづかないで「正当化」のイデオロギー(思想傾向)をふりまわすという傾向が少なからずある。したがって、事実関係の科学的論証の重要性が、法学を社会科学とするための不可欠の前提であることは、強調しても強調しすぎるということはない。

(4)結論
法解釈はイデオロギー(思想傾向)上の問題であり、解釈者の立場や価値判断の違いによって異なった法解釈が生まれる。それにもかかわらず、さまざまに対立する法解釈のうち、どれが(少なくとも相対的に)一番正しいかということは「理論的」に確定しうるものである。ただ、この場合の理論とは、経験科学〈「経験的事実・現象を対象とし実証的な方法で研究する学問。自然科学や社会科学など。数学・形式論理学、または規範学のような学問に対する語」(『大辞泉』小学館)〉的分析を基礎とした「理論」でなければならないのであり、従来の法律学がそうであったような単純な理論的「正当化論」であってはならない。しかし逆にまた、この経験科学的分析自体、立場によって制約され規定されるものであり、このことは自然科学との違いをしめすものである。こうして立場と認識は相互依存的に結びつき、影響しあっている。この意味で、社会科学における理論的認識は認識者の主体的立場と不可分な関係にあるといえる。

要するに、法解釈に当たって、基本的に忘れてならないことは、次の二点である。
その一つは、われわれが法の解釈に当たって、自らの立場や価値判断を鮮明にしなければならないということである。法解釈学が、すぐれて実践的な学問である以上、これは自明なことであり、普遍妥当的な「中立的」立場などというものはありえない。無思想な法解釈というものは、その場次第で容易に変節しうる御都合主義と、おそるべき無責任とをまねく。

第二に大切なことは、一定の価値判断を持つとしても、それは決してドグマ〈「独断、教条」『大辞泉』〉であってはならず、その成否を経験科学的方法によって検証するよう努力しなければならない。

以上二つのことは、どちらも法解釈に当たって欠くことのできない前提であり、そのどちらか一つを見失っても、法解釈を誤る。だから、この二つのことは常に念頭に置かねばならない。
2  税理士法の内容(大前提)

(1)税理士法の内容
岡山地方裁判所(岡山地裁)の判決は、倉敷民商事件における罪となるべき事実について、「被告人両名は倉敷民主商工会の事務局員であるが、税理士ではないのに、業として、小原は税務書類である法人税の確定申告書を作成、須増は税務書類である所得税の確定申告書を作成するという税理士業務を行った。」と述べる。

税理士法は、税理士業務について、次の規定を置いている。

[税理士の使命(1条)]
税理士は、税務に関する専門家として、独立した公正な立場において、申告納税制度の理念にそって、納税義務者の信頼にこたえ、租税に関する法令に規定された納税義務の適正な実現を図ることを使命とする。

[税理士の業務(2条)]
税理士は、他人の求めに応じ、租税(印紙税、登録免許税、関税、法定外普通税(地方税法(昭和二十五年法律第二百二十六号)第十三条の三第四項に規定する道府県法定外普通税及び市町村法定外普通税をいう。)、法定外目的税(同項に規定する法定外目的税をいう。)その他の政令で定めるものを除く。以下同じ。)に関し、次に掲げる事務を行うことを業とする。

一  税務代理(税務官公署(税関官署を除くものとし、国税不服審判所を含むものとする。以下同じ。)に対する租税に関する法令若しくは行政不服審査法(昭和三十七年法律第百六十号)の規定に基づく申告、申請、請求若しくは不服申立て(これらに準ずるものとして政令で定める行為を含むものとし、酒税法(昭和二十八年法律第六号)第二章の規定に係る申告、申請及び不服申立てを除くものとする。以下「申告等」という。)につき、又は当該申告等若しくは税務官公署の調査若しくは処分に関し税務官公署に対してする主張若しくは陳述につき、代理し、又は代行すること(次号の税務書類の作成にとどまるものを除く。)をいう。)

二  税務書類の作成(税務官公署に対する申告等に係る申告書、申請書、請求書、不服申立書その他租税に関する法令の規定に基づき、作成し、かつ、税務官公署に提出する書類(その作成に代えて電磁的記録(電子的方式、磁気的方式その他の人の知覚によっては認識することができない方式で作られる記録であって、電子計算機による情報処理の用に供されるものをいう。第三十四条第一項において同じ。)を作成する場合における当該電磁的記録を含む。以下同じ。)で財務省令で定めるもの(以下「申告書等」という。)を作成することをいう。)

三  税務相談(税務官公署に対する申告等、第一号に規定する主張若しくは陳述又は申告書等の作成に関し、租税の課税標準等(国税通則法(昭和三十七年法律第六十六号)第二条第六号イからヘまでに掲げる事項及び地方税に係るこれらに相当するものをいう。以下同じ。)の計算に関する事項について相談に応ずることをいう。)

2 税理士は、前項に規定する業務(以下「税理士業務」という。)のほか、税理士の名称を用いて、他人の求めに応じ、税理士業務に付随して、財務書類の作成、会計帳簿の記帳の代行その他財務に関する事務を業として行うことができる。ただし、他の法律においてその事務を業として行うことが制限されている事項については、この限りでない。

3 前二項の規定は、税理士が他の税理士又は税理士法人(第四十八条の二に規定する税理士法人をいう。次章、第四章及び第五章において同じ。)の補助者としてこれらの項の業務に従事することを妨げない。

[税理士業務の制限(52条)]
税理士又は税理士法人でない者は、この法律に別段の定めがある場合を除くほか、税理士業務を行つてはならない。

[罰則(59条))
次の各号のいずれかに該当する者は、二年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。

一  税理士となる資格を有しない者で、日本税理士会連合会に対し、その資格につき虚偽の申請をして税理士名簿に登録させたもの

(2)税理士法の歴史
戦費調達と税務業
税務業の発生は戦費調達と密接な関係がある。日清(1894年)、日露(1904年〜 1905年)などの戦争でたびたび増税がなされた。1900年代の初頭には会計の書籍も市中に出まわっている。たとえば、實業之日本からは、『商賣と勘定』(西岡英夫)、『最新式記帳法』(都倉義一)、『商業簿記獨習書』(竹内正太郎)、『最新商業簿記』(村瀬玄・竹内正太郎)、『最新式簿記』(土屋長吉)等が刊行されている。当時、納税者が税務に関して相談する相手は会計を使いこなす者や元税務官吏であった。これら税務相談の受任者が公になったのは、大阪府が1912年に制定した「大阪税務代弁者取締規則」であった。この規則は納税者に対する不当な報酬要求を取り締まるものであった。

昭和の時代(1926〜 1989年)になり、1931年の奉天(現在の瀋陽)北方にある柳条湖の鉄道を爆破する「満州事変」を契機に中国東北侵略戦争が始まった。こうしてわが国は軍部が独裁的な権限をふるう軍事国家となってゆく。1941年12月8日未明(アメリカ時間7日)日本海軍はハワイ真珠湾軍港へ奇襲攻撃を行った。これによって日本は第2次世界大戦に突入した。日本経済連盟会(1922年結成。財閥資本を中軸に据えた総合的資本家団体で、経済団体連合会〈現、日本経済団体連合会〉の前身)は、「挙国戦争完遂の自覚を促す為愛国税を新設し所得の種類、職業の如何を問はず広く全国民をして悉く戦費の一部を分担せしむること。」とする意見を表明している(日本経済連盟会調査部編『戦時税制の諸問題』産業図書株式会社1944年)。そして、徴税環境の強化のため「税務代理士法」が1942年に制定されたのである。第2次大戦前の日本資本主義は1945年の敗戦によって没落した。

税理士法の成立の歴史的根拠
(イ)日本の無条件降伏
1945年7月26日、ドイツのベルリン市の郊外ポツダムで主要連合国会議が行われた。アメリカ、イギリス、中国の3首脳はポツダム宣言を発して日本に降伏を勧告した。日本は45年8月14日、ポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏した。連合国の名においてアメリカは事実上日本を単独占領した。

(ロ)シャウプ勧告
第2次大戦後の混乱した日本の経済事情の下ではどのような税制を採用すべきが課題となった。1949年、連合国最高司令官の要請によってアメリカから来日したシャウプ博士を団長とする税制視察調査団はわが国の税制および税務行政について調査し、勧告書を提出した。同調査団は1950年にも来日し、第2次勧告書を提出している。これら第1次および第2次勧告書が「シャウプ勧告」と呼ばれる。

シャウプ使節団日本税制報告書(REPORTON JAPANESE TAXATION BY THE SHOUPMISSION、「シャウプ勧告」1949年9月)は、その序文で次のように述べている。

「税制使節団は、連合国最高司令官の要請によって編成されたものであるが、日本の租税制度に関する本報告書を右連合国最高司令官に提出するものである。本使節団は、日本における恒久的な租税制度を立案することをその主要な目的としている。」「われわれの目的は、商工業者および相当な生計を営むすべての納税者が記帳を励行し、公平に関連するかなり複雑な問題を慎重に論及することを辞さないということに依存する近代的な制度を勧告するにある。同時に、また、小さな納税者には、申告および納税の手続きを簡単なものにしておくべきである。」

(ハ)シャウプ勧告の税務行政に対する忠告
シャウプ勧告は最終章である第14章において「所得税における納税協力、税務行政の執行ならびに訴願」(以下「税務行政忠告」という)について述べている。

つぎは税務行政忠告の具体的項目の概要である。

[目標制度]
所得税の行政担当官は目標額制度を発展させた。目標額制度の本質的特徴は所得税収入の推計を各税務署の管轄地域ごとに作成することである。各地域の推計の合計額が東京の中央官庁で作られた全国的推計に合致するよう、中央官庁の官吏と協議をして調整される。いずれにしてもこの制度の悪弊は残っている。それは各地域で税がどれだけとれるかという推計を持ち出すものである。このような数字が税務署長の頭にあることは所得税の執行面に歪みを生ずることになり易い。余程それに左右されない決意を持っていない限り、かれが過大過少課題をさけることに対する注意が緩慢となり、推計額に応ずることが主要な目的となりがちである。会計年度の終りが近づくにつれてこの傾向が特に強まる。徴収見込みがたち遅れると、現金預金を持っている従順な納税者に多額の課税をしがちになる。所得税の課税目標の推計は止めるべきである。目標の推計は米国ではしていないし、他の国でもこのようなことをしているところはない。所得税は目標額制度と両立しえない。

[租税に関する学究的関心]
租税に関する研究がもっと重要視されればされるだけ日本の租税はもっと効果的なものとなるであろう。なぜなら、頭脳明敏な者がますます多く租税の研究に向かえば、この分野におけるもっと重要なそして知性に挑戦するような問題を提起するであろう。このことは、法律および会計を実地にやっている者、大学で教授し且つ調査を続けている者、および官庁の調査部局にいる者にあてはまる。

[税務官吏の行為]
税務官吏は国民の代表者であり国民から遊離した当局ではない。国民は、その政府の重要な職能のため支払資金を徴収する仕事をかれに託したのである。それ故、かれらの国民としての存在は税務官吏がその仕事を適正に遂行して行けるかどうかにかかっている。国民は、かれらがその重責を厳格に課すことを期待している。しかし、厳格であることは傲慢または無作法であることを必要としない。厳格さは親切と忍耐力を伴い、しかも厳格さの主要な性質を保持し得るものである。税務官吏は、現在よく耳にするように、納税者に対する高圧的な態度に関する抗議に正当な理由を与えないように職務を遂行すべきである。

[納税者の代理]
税務官吏に対する職業的立場からする納税者の代理業務は、現在税務代理士によって取り扱われている。一方少数の弁護士と、そしてこれより多くの会計士が税務代理士の認可を受けているが、この業務の大部分は以前に税務官吏であった者によって行われている。現在純所得の客観的捕捉が不十分で、これに伴い税務署と納税者との交渉が重要性を増してきた。税務代理士は、納税者の代理としての税専門家というよりも、むしろ上手な取引者ができあがっている。ある場合においては、この「取引者」という語は「買収」「収賄」およびこれらに類似するものを意味する婉曲な語句である。もし、単にえこひいきまたは寛大を得るために交渉するのではなくて、納税者の代理を立派につとめ、税務官吏をして法律に従って行動することを助ける積極的で見聞の広い職業群が存在すれば適正な税務行政はより容易に生まれるであろう。

適正な税務行政を行うためには、納税者が税務官吏に対抗するのに税務官吏と同じ程度の精通度をもってしようとすれば、かかる専門家の一団の援助を得ることが必要である。税務代理士の資格試験については、租税法規と租税手続のより完全な知識をためすべきである。現在では、納税者は、その希望により、友人またはその他の個人に代理してもらっても差支えない。税務代理士の許可を受けなければならないのは人が代理業に従事する場合に限られる。

[税法の講座]
各大学の法学部においては、税法の講座が独立の科目として設けるべきである。税法の文献および技術的規定ならびに税務行政の専門的部面に注意が向けられるべきである。

[適正な税務行政]
所得税および法人税に関し日本の当面する基礎的課題は、何百万という納税者に適用される近代的所得税法および法人税法を励行するために必要な完全な機構を作り上げることである。この課題は極めて重要なものの一つである。それは、日本国民の努力と、想像力と忍耐力に対する真の挑戦を意味する。その事業は一夜にして成るが如きものではない。適正な税務行政は1年や2年のうちに突如として出現するものではない。それは日本国民よっても、またその他の国民によっても、徐々にしか獲得できないものである。それが果して獲得できるものであるかどうか、また、いかなる程度に達成されるかということは日本人自身にかかっている。しかも、この問に対する回答は国民全体にかかっているもので、税務官吏または様々な納税者の集団のみにかかっているものではない。適正な税務行政が十分な進歩を遂げようとするならば、税務手続きおよび徴税のあらゆる分野にわたって着実な改善が一様に開始されなければならない。全般にわたるこのような不断の努力は複雑な事柄である。

税理士法の成立
税理士はシャウプ勧告を受け入れて1951年に成立した税理士法(昭和26年6月15日法律第237号)によって認められた税務の代理人としての専門家である。

先の税務行政忠告にあるように、シャウプ勧告は、税理士を「納税者の代理を立派につとめ」、「税務官吏をして法律に従って行動することを助ける」ものとしてとらえている。
3 民主商工会の活動(小前提=事実の認定)

(1)民商・全商連の組織
全国商工団体連合会(全商連、民主商工会・略称「民商」の全国組織)は1951年8月に結成された。同会は、翌1952年3月に全国商工新聞(当時は「日本商工新聞」)を刊行した。 全国商工団体連合会(全商連)には、北海道から沖縄まで全国約600の民主商工会(民商)が都道府県連合会ごとに加盟しており、民商、都道府県連合会、全商連を合わせて「民商・全商連」と呼んでいる。民商・全商連は会員数が20万人を超える結社である。民商・全商連は、中小業者が、商売を続けこの時代を生きていくには、それぞれが知恵をしぼり、同時に団結して営業とくらしをささえあうことが重要であるという立場で活動を行っている。

民商の会員は、従業員9人以下の個人事業主が中心で、業種は建設・製造・料飲・小売・サービスなど多種にわたる。毎週、発行している「全国商工新聞」は30万人の読者を擁し、会内外の中小業者をはげましている。

(2)全国商工新聞
マス・メディアにおける言論市場の圧倒的部分が、巨大資本、巨大宗教の手中に収められている条件のもとで、人格のない社団等の機関紙や機関誌の果たすべき役割の重要性は「知る権利」を保障するものとしてきわめて大きい。巨大な言論市場の独占のもとにおいても、色々な団体が、自分たちのいいたいことを他へ伝える自由を保障させなければ、世の中は真っ暗闇となる。各政党、社会的団体、労組、学生自治会、住民サークルなどの機関紙・誌は暗闇を照らす貴重な灯りである。

全国商工団体連合会(全商連)の機関紙である『全国商工新聞』(商工新聞)は、全国の中小業者の悩みや怒り、会員や読者の要求を大切にしながら発展させる立場で編集されている。全国商工新聞の前身である『日本商工新聞』は、全商連が結成された1951年の翌年1952年3月10日に、全商連と中小業者のたたかいを全国に伝え、運動を統一し組織していく機関紙として発刊された。日本商工新聞は1953年に現在の全国商工新聞と改題され、2015年4月20日現在で3165号を迎えている。

商工新聞には全国各地に1,500人を超える通信員がいる。商工新聞は、通信員から寄せられた商売仲間の知恵と工夫、貴重な体験などの生きた情報が満載している。商工新聞には悩みを抱えた業者が仲間と力をあわせて解決した事例が載っている。商工新聞は地域になくてはならない中小業者の役割に光を当てている。 また、倒産、失業、消費税増税、社会保障の切り捨てなど、中小業者・国民に「構造改革の痛み」を押しつけている冷たい政治を変えることも呼びかけている。地域になくてはならない中小業者の役割に光を当てているのである。

商工新聞は 大きな活字で読みやすく、月2回はカラー刷りで、政治・経済問題、業界の話題、税金、金融、法律、社会保障問題など営業にすぐ役立つ記事から、パズル、料理など家族で楽しめる紙面にもなっている。商工新聞はマス・メディアが言論支配をしているもとで、民主主義社会の基礎をなす表現の自由(憲法21条)の実現に向けて欠かせない日本で有数の新聞である。

(3)民主商工会の記帳
民商・全商連の各種文書によれば、民商・全商連は会員の記帳について、次のように述べている。

中小業者自身が、経営計画を立て、その結果を知る上で自主的に会計の計算を行い記帳することは欠かせない(このことを自主計算・自主記帳といっている)。民商の事務局が記帳を請け負うものではない。

民商会員は、会員相互の記帳能力を高めるために、民商の班や支部の活動に積極的に参加する。班会で学び、自分の所得を自分で計算できて「やった」と喜ぶ会員など、自主計算・自主申告活動をとおして、喜びと確信をもった会員が生まれている。記帳は会員の要求であるが、中小業者の記帳要求は、他人任せにしたいというものではない。会員が自ら経営の実態をつかむ、税負担を知りたいなどのために自らが記帳する力をつけて記帳した内容を理解することが記帳要求の本質である。

民商・全商連は運動を推進する団体であり、共同事業を行う団体ではない。

県連合会・民商は、全商連の「記帳を要求運動とすすめる」という方針にもとづいて、記帳が会員の喜びとなるような活動を行い、自主記帳に取り組む会員が中小業者の多面的な要求に取り組む自覚を持つようにする。

民商の事務局員は、会員の営業と生活を守る運動に深くかかわり、専従者として献身的に業務を行っている。事務局員の業務遂行は会員の記帳を請け負うものではないからこそ会員の信頼を得ている。

民商に導入されているコンピュータは、一人ひとりの会員が、営業と生活を守り発展させる有力な手段として使いこなすためのものである。各民商はコンピュータを活用して自主計算・自主記帳をすることが一人ひとりの会員の自覚的な活動となる運動に取り組んでいる。

(4)民商・全商連の活動
会員同士の助け合い
民商・全商連の運動は、「『集まって、話し合い、相談し、助け合って、営業と生活を守る』ことを活動の原点としてきました。班は、会員同士が日常的に声をかけ合い、知恵や情報を持ち寄り、商売を語り合って助け合う場です。会員は、班活動を通じて民商運動に参加」するものである(全国商工団体連合会『民商・全商連運動の基本方向』2007年22頁)。

事務局活動
次は民商の事務局員の任務に関する全商連の文書の一端である。
「事務局員は、『基本方向』が示している民商・全商連運動の理念と目的、展望と方向に確信を持ち、事務局活動を推進します。事務局員には、『 要求を実現するため会員自らが活動に参加できるよう役員会といっしょになって活動する、 会の組織と財産を守る』(基本方向)の役割があります。」「役員と事務局員は、ともに平和で民主的な社会を願い奮闘する『共同の運動の推進者』という関係にあります。

事務局員は(中略)、立場は労働者ですが、中小企業の仲間として、営業とくらし、権利を守り向上させるため、ともに民商・全商連運動に参加しています。また、事務局員は、営業を切り盛りし、時間的制約の中で奮闘している役員が、運動の組織者としての力を最大限に発揮し、民商運動を系統的に前進させる先頭に立てるように、実務的にも組織的にも支える任務をもっています。『全員主人公』の民商運動は『役員中心』の運営を貫いてこそ前進します。」(全国商工団体連合会『財政活動の一層の前進のために』2005年版79頁)「常任理事会報告では、事務局建設として『専従者、組織者、変革者としての誇りと自覚を育てます』と強調しました。『専従者』とは、単に雇用された労働者でなく、役員と一緒に運動に責任を持つ立場です。」「自ら商売を切り盛りして奮闘する役員、役員会を実務的かつ組織的に専従事務局員が支えること、(中略)そのことが『共同の運動の推進者』としての役割発揮につながります。」(全国商工団体連合会『全商連第27回事務局員交流会報告集』(2014年9月24頁〜 25頁)
4 微塵も税理士法違反の事実はない(結論)

以下のように、民主商工会の活動には微塵も税理士法違反の事実はない。

(1)税理士は他人の求めに応じる業務
税理士は、他人の求めに応じ、租税に関し、税務代理、税務書類の作成、税務相談のほか、税理士の名称を用いて、他人の求めに応じ、税理士業務に付随して、財務書類の作成、会計帳簿の記帳の代行その他財務に関する事務を業として行うことができる専門職である(税理士法2条)。

(2)民商事務局員は共同の運動推進者
民商の事務局員は、民商活動の共同の運動の推進者である。中小企業の仲間として、営業とくらし、権利を守り向上させるため、ともに民商・全商連運動に参加している。また、事務局員は、営業を切り盛りし、時間的制約の中で奮闘している役員が、運動の組織者としての力を最大限に発揮し、民商運動を系統的に前進させる先頭に立てるように、実務的にも組織的にも支える任務を遂行している。民商の事務局員は、民商の専従者として、単に雇用された労働者でなく、役員と一緒に運動に責任を持つ立場にある。

(3)税理士法違反の事実はない
民商の事務局員は、民商組織内部の一員として、共同の運動の推進する者である。民商は他人の求めに応じて業務を行う税理士とは何の関わりもない。

民商に対して「税理士法違反」などというのは見当違いの「でっち上げ」に他ならない。
以上

(うらの・ひろあき:東京会)

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